ランチに、サルティンボッカ (SARTINBOCCA) – 志染/イタリアン [食べログ] に寄り、竹中半兵衛の墓を訪れました。
サルティンポッカの店主が、僕のミラーレス一眼カメラに興味を示し、店主の父親が、副業で、フィルムカメラの現像してたことや竹中半兵衛のことなどを、少し話しました。
店主によると、自転車で、この辺をサイクリングする人もいるようです。
9月5日となっていましたが、竹中半兵衛の墓の周り一帯は、ミンミンゼミが、まだ元気に鳴いていました。
僕が、初めて、竹中半兵衛の墓を訪れたのは、小学生での遠足でした。
竹中半兵衛は、信長記の伝記で知っていたのですが、
斎藤龍興の家臣であったのが、浪人し、
信長の家臣になって貰うために、秀吉が、三顧の礼で迎え、信長ではなく、秀吉のためならと、家臣となったとされる。
そんな有名な竹中半兵衛の墓が、小学生の遠足の時に、遠足で見た時には、あまりにもみすぼらしいのに、ショックを受けました。
三軍誰不欽英風
(三軍誰か英風をしにわざらん。)
秀吉の大軍は皆、半兵衛公を慕っていた。
この詩は、天保年間、山田翠雨が参拝の際に、作詩したものである。
竹中半兵衛は、病気療養のために、京に戻っていたのを、固着した戦況を心配し、この三木合戦の戦場に戻る。
天正7年6月13日、36歳で永没。
墓を参ると、竹中半兵衛に思い入れがある僕には、線香くらい、用意して欲しいなあとも思った。
何知籌策出千公
(何ぞ知らん籌策出千公)
半兵衛の策であったことを人は知っているだろうか。
小学生の頃に、訪れてから、社会人になってからの何度目かの竹中半兵衛の墓への訪問でした。
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